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以下に紹介するのは、コルの唯一の著作『子どもの学校について(Om
boerneskolen)』の抜粋である。
コルがこれを書くにいたったきっかけは、フュン司教区の文学協会主催の、
子どもの教育に関する論文のコンテストであった。
彼は1850年12月30日にこれを書き上げ応募したが、
当選しなかったので多くの人の眼にふれるということはなかった。
しかし、確実にこの思想にもとづいて彼はフリースクールを開始したのである。
これは彼の死後1877年に初めて出版された。
今日のデンマークのオルタナティヴ教育の記念碑的な論文であり、
フリースクール運動の基本的な哲学が述べられていると考えてよい。
150年以上も前の著作であるが、現代の日本の学校教育関係者には耳の痛い話も多く、
その内容の斬新さは今日でも依然として輝きを失わない。
物語と想像力
「初等学校の教育はほとんどもっぱら理性的に話すことだけにとらわれ、 感情に関してはわずかにしか関心を持たず、 想像力と感覚についてはまったくなおざりにしてきたという事実は犯罪的である」。
「宗教を教えるにあたり、広く使われている教理問答方式は外国からきたものであり、 われわれにとっては不自然なやり方である」。
「子どもの能力に応じて教育する際に、ほとんどそのような注意が払われてこなかった。
いちばん真っ先に焦点があてられるのはまだ成熟には達していない知性の発達であり、
すでにある想像力を通して働かせることをしなかったのである。
こうしたことの理由は、おそらく意識的あるいは無意識的なあやまった信念、
すなわち子どもはまだ動物であり、しつけと教育によって人間にしていくという信念にあるのであろう。
その際子どもがすでにもっている想像力などの能力を単純に刺激し、
伸ばしていくということをしないのである。
この体系的で教理問答的なアプローチがドイツ人やその他の国民にふさわしいかどうかは
デンマーク人である私には決定できないが、
デンマークにおいてはふさわしくないということは明らかである。
われわれの祖先たちが、有益で喜びにあふれたものと見なした生の啓発にいかに適合し、
受け入れていったかを見るならば、それが物語を語るという方法であったことを知るであろう。
たしかにわれわれデンマーク国民はいかなる哲学的な著作、あるいは体系も古代から受け継いではいない。
しかし、祖先たちの達成をみるとき、豊かな物語の世界をもっているのである。
それはユダヤ民族とギリシャ人を除けば、いかなる世界の民族ももちえなかったようなものである。
同様に、先祖たちのあらゆる観念、宗教的、社会的なものであれ、
それらはみなイメージの中でわれわれに伝えられてきた。
それらはみな想像力からつくられ、想像力に訴えるに適したものなのである。
われわれは、子どもたちがいかに啓発されることを求めているかをたやすくわかることができる。
それはただ尋ねればよい。
そうすると子どもたちは答えるだろう。
「お話しをして!」と。
自分の子ども時代をふり返っても私たちは知っている。
子どもたちの面倒を見るのが好きな教師なら、多くが自発的に物語やサーガ、
あるときは宗教的な内容、あるときは巨人やドワーフの話というように、
物語で教育しようとしてきたことを知っているのである。
この優しい仕事がもつ有益で楽しい影響は私には評価できないほどである。
しかるに現在は、語りに対する冷笑やあざけりが広まって、こうした試みは終わりにされてしまった。
木がその果実で認識されるように、 それと同じ仕方で開かれた見識によって認識されるべきであるということが真実ならば、
現代の民衆の啓発はいわば切り倒された木のようなものであろう。
なぜなら、生は切り裂かれ、八つ裂きにされたものとして見られるときほど、
暗く見えるときはないからである。
子どもが生の神秘を解明することをわれわれに尋ねるようになり、
われわれが自分の知る小さな部分にまで細かく割っていけば、
(本来は)生の謎を解くために、より大きくより深い神秘について聞きたがる子どもが、
われわれに背を向けるかもしくは謎を解くことをまったくあきらめるかするのは当然のことである。
それゆえ、われわれは教理問答式の教育法をそれがもつふさわしい場所で使うべきであろう。
すなわち、数学、幾何学、あるいはたんなる代数、これらは規定された解決法からなるものである。
しかし、聖書を教えたり、 祖国の歴史、あるいは人間を精神世界と市民社会の成員にまで高めるためのその他の科目は、
私の考えと経験からすれば、 物語を語ることがもっとも確実でたやすく子どもたちを引きつけることができるものである。
それゆえ、古いおとぎ話、物語、伝説や神話は自分にふさわしい場所を再び獲得すべきである。
デンマーク人に与えられ、何世紀も通じてわれわれ民衆の生活に深く浸透してきた詩的な天性は、
再び目覚め、子どもたちによって分かちもたれなければならない。
さもなくば、子どもたちが生の退屈さで腐敗し、
物質主義と感覚主義の荒れ狂う波で押し流されてしまうだろう」。
宗教を教える
「子どもたちは年齢が違っているにもかかわらず、
それでも彼らはおのおの物語による精神的な涵養を受け入れることができる。
より年齢がいけばより理解するようになるし、
小さな子どもも、物語と彼らが思い浮かべる絵によって、いつも楽しむであろう。
子どもは精神的な事柄で心が一杯になることが好きなのである。
しかし、子どもたちはえり好みをする。
―よくないことは、 子どもたちに哲学的な断片あるいは彼らの本性に反する消化できないようなものを与えることである。
この意見に対してありうる反対意見は、 知性的な人間よりも若者の方が想像力や情感は発達しているけれども、
それにもかかわらず、たとえそれが少ない程度であっても、
知性が子どもに現れたときから、それを発展させるようにしなければならないというものであろう。
しかし、答えはこうである。
すなわち、人が子どもの知性をより成功裏に発展させようとするならば、
想像力の助けがなければならないということである。
さもなければ、概念は死んだままであろう。
……
もちろん、何か深く暗いものが残るであろう。
それらは感じられるだけかもしれないし、まただんだんと精神的な眼になりうるものかもしれない。
しかし、それはデンマーク語の詩的な本性に負うのであり、
いわばデンマーク人のわれわれにとって魅力的であり、子どもを独立した思考に導くものであろう。
他方で算数は、とくに知性への影響に優れている。
民衆の啓発
「聖書の物語のように、祖国の歴史もとくに最初は口頭で経験されねばならない。
耳から心へというのは、創造者自身が例証した自然な方法である。
なぜなら、あらゆる教育は生を与える力をもたなければならないからである。
精神を目覚めさせるのはただ生きた言葉だけに含まれている。
いったん精神が目覚めたら、 書かれた言葉による啓発の人工的な仕方でも何らかの結果を与えてくれるだろう。
それゆえ教師は詩のセンスをもたなければならない。
それも、子どもの想像力に語りかけ、 同様に神話や伝説を生き生きとした仕方で解釈し扱うためのセンスである」。
……
「精神が目覚めていなければ、知識は何の役にも立たない。
目覚めはやがては起きるだろうと自己を慰めたとしても、経験はその逆を多くは示している。
だが、目覚めた精神はいつでも必要な知識を要求する。
いわゆる聖者はその明らかな証明である。
学校へ行かなくても、他者の特別な援助がなくても、彼らはキリスト教の知識を獲得した。
それは多くの聖職者たちがもちたがったものである」。
「もし人が、宗教的な意味でかあるいは民衆の精神に関して、
精神の目覚めに成功するならば (これはある者には可能であるが、多くのものには困難である)、残りは自ずから生じるだろう。
生の啓発が今ある形で初等学校の結実になるようにと、
われわれが長い間むなしくも望んできたものだが、その啓発への飢餓感は、そのとき場所をしめるだろう。
そして精神的なものの増大は、知識と技術を通して、あきらかに目に見えるものとなるだろう。
聖書の物語と祖国の歴史を語ることは、学校教育を通してずっと遂行されねばならず、
学校教育での第一の課題として見なされ扱われなければならない。
しかし、とくに大事なことは単調になってはならないということである。
退屈さは、われわれが難破しないように注意する岩となってしまう。
最初に物語を語るときは口頭で語られる。
その限りで小さな聴衆たちの注意を引きつけられるからである。
最近の歴史には、神話や伝説あるいは聖書の物語の最初の部分ほど
子どもにとっておもしろいところはほとんどない。
二番目のときには、聖書の賛美歌や韻文のところを子どもたちに読んでやるべきである。
祖国の歴史を教えるときには、
エーレンスレヤーの「北欧の神々」インエマンの歴史的小説、サクソ・グラマクスの部分、
あるいは適当と思うもの何でも読み聞かせるとよい。
変化をつけるために、聖書の物語を直接聖書を読むことで語り聞かせるのもいいだろう。
年長の子どもたちは、それゆえ聖書を直接自分たちで読めるし、
生き生きと書かれたデンマークの歴史も読むことができる。
しかしながら、 農民の子どもたちに関しては、こういうことは12歳から13歳になるまでにはあまり起こらない。
この年齢になるま
では、教育はすべて口頭で行われるべきであろう。
口頭での教育を生き生きとうまくやれば、子どもたちは自分の楽しみのために本を読むようになるだろう。
しかし、そうするように声を出してはならない。
彼らは、自分たちが望むもの何でも、そしてたくさん読む自由を感じなければならないのである」。
真の教育
「このことがいかにして現代の誤った啓発が存在するようになったかという理由である。
それは核心において間違っている。
それは所有していない世界のあらゆる富を約束するだけではなく、
それ自身キリスト教のイメージで推し進め、キリスト教を垂れ幕として利用し、
真理の歪曲の中で自分自身をおおい隠し、そのことで精神のもっとも危険な敵となっているからである。
内容のない形式、口で繰り返して暗記しておぼえたが心からは遠い信条、
たくさんのおしゃべり、大きなプランだが実現はしない、スピーチのための長いスピーチ、
多様な考え、しかしわずかな現実性、何かができそうだというフィーリングと認識、
しかし結果はただ肩をすくめるだけ、 どんな種類の相互作用でもいいかげんで非現実的、
ポンティウス・ピラトのように無気力で信用できない質問「真実とは何か」。
いかなる真理も真実もなく、いかなる生命も強さもないまま横たわるこの単調なものは
われわれの時代の災いの元である。
それは教育のシステムの内部で強いサポートのもとに出会われるものだ。
いったん子どもがその課程を学び、試験されると、
彼らは要求されていることがすべてなされ、それですべてが終了したと考えるようになる。
そして試験に通れば、ゴールに到着したと考えるのである」。
「教育の真のゴールと目的は、 デンマーク国民が、●求めている人生、望み、そして愛の明晰なビジョン、
そしてそれらを遂行する技術と独立性を、彼の能力の最高レベルで獲得することである。
それらは地上においてもまた天上においても彼らに役立ち喜ばせるものである。
このゴールが間近になれば、呈示された啓発が真実で本物に違いないということ、
そして、暗記しておぼえ、信仰箇条として受け入れられた答えと結論は
決してゴールには導かないということが誰でもはっきりとわかるだろう。
教育は子どもたちの内面を目的として、そこから外形が形づくられることを認めなければならない。
生きた理解、願望と愛は精神を通して現れねばならず、
形式がすべてであるという誤解を防ぐために、
精神が自分自身の形式を想像するようにしむけねばらないということも、同時にわかってくるだろう。
二つのことが真実で本物の教育に必要なことである。
一つは、教員の個性と気質は、 教育において重要で必要とされるものへの生きた関心と愛によって満たされている必要がある。
その結果、生きた言葉の理解しがたい力によって、
子どもたちの人格は、 教師が伝えようとしている思想、感情、アイディアを受け入れるために開くことだろう。
二つ目は、教えられる内容は、生徒が、彼の精神の生を目覚めさせるか涵養する仕方で、
そして生徒自身の精神的な立場から、 真に受け入れることのできるような性質のものでなければならないということである。
この二つの条件は、精神的なインスピレーションがあるところでは例外なく必要なことであり、
指導の際の基本的な原理である。
これが可能であるためには、教師が第一に精神に目覚め、生を生きなければならない。
そして子どもにおいてそれを継続して目覚めさせ、涵養していくのである」。
「教師に対する別の要求は、話される言葉を意のままに扱えなければならないということである。
これは最初の条件に劣らず重要なもので、話される言葉こそが精神の道具であるからである。
しかしながら、多くの人々はペンと出版物が大事と思っている。
われわれの教育システムが成功しなければならないのであれば、
生きた言葉はその正当な場所をしめるべきであり、
オリジナルがコピーに対し、また本物の人間が肖像画に対して高く位置づけられるように、
ペンと印刷物の比較においても生きた言葉は高く位置づけられなければならない。
キリスト者の人生にとって真実であるもの、
教師はそれを目覚めさせ涵養するためにも
自分自身それを知りそれを生きなければならないということは、一般の民衆の生にとっても真実である。
それについての知識をただ与えるだけでは充分ではない。
一般民衆の精神が眠ったままであるわれわれのような時代においては、
精神と生を通して一般民衆を眠りから目覚めさせることが、肝要なことである。
……
デンマークの民衆が真に自由な、独立した強い民衆、
自分たちの自由を自分たちと社会の利益と喜びのために使うことができるような民衆にまで
高まらなければならないとすれば、 精神は、発展の途上において、狭い心、自己保存、抑圧にあることから解放されねばならない。
そのことは、初等学校の構造とあり方をはるかに大きな程度促進する。
われわれの学校での生活は、刑務所あるいは矯正施設の生活と変わらない。
もしある人が、小さな子どもたちがいっしょに学校の席に詰め込まれ、
彼らの年齢の割には不自然なまでにきまじめでおとなしく、
それが明らかにおそれのためであるのを見れば、
奴隷根性が支配しているといった不快な感情をえるだろう。
若い子どもたちが教師の回りに集まっているときというのは、
とどのつまり、もっとも喜ばしい光景でなければならない。
子どもたちがほかのどの場所にいるよりも幸福で自由でなければならないのである。
しかし、多くは子どもたちの顔に退屈が反映しているのを目撃する。
子どもたちは、自分たちが自然にふるまうことを許されておらず、
また環境においてそうすることが許されていないのである。
彼らは奴隷根性をもつようになり、 それは、子どもたちがいたずらをするときに
教師の注意を避ける方法をおぼえたときに身についたずるがしこさ、陰険さによって表現されている。
教師は概して刑務所の刑吏官として見られ、 逃げ出すときにはいつでも彼を馬鹿にすることがいいとされるような人物なのである。
……
ただ心から出たものだけが心によって受け止められる。
よかれ悪しかれ、実際にインパクトをもつべきものはすべて心の深いところから準備され、
そこから言葉と行動へと変換されねばならない。
表面的な生はただ外面と幻影を生み出すだけである。
未経験者にとっては、それはあたかも実在するかのように映るが、しかし存在はしないのである」。
「教育の真のゴールは、生に明晰さをもたらし、
有益な生の手段を遂行するための技術と独立性をもたらすことである。
これらは上記のことと密接に関係している」。
「授業の後すぐに何を学んだかを説明するように子どもに求めるのはよくないことである。
賢者はいっている。
それは、母親が、何をどのくらい食べたか確かめるために、
今食べたものを子どもにはき出させる要求をするようなものだと。
こういうやり方では、子どもは身体を養うものを奪われるようなものだろう。
身体が必要な栄養をそれから吸収してしまうまで
子どもの身体の中に食べ物を残しておくことが正しいことと考えるだろう。
しかし、この間違った手続きは、おそらく子どもを鋳造し直すこと、
それゆえ混合物を溶かすため、 いくつの部分の金属があるかを知ることを目的とする事実によって引き起こされている。
……
人はお話をするときには、子どもが話しについて来ているか、
指導が子どもたちの心を解放し、楽しませているか、
精神が彼らの目に反映されているかどうかを注意しながら、すべきである。
これらのことが生じているなら、子どもがこのことを少しでも考えたとき、
生の答えが、言葉や行動にわき出てきて、
そのときに、教育が効果をもったことをはっきりと知るであろう。
もちろん、全ての点でわれわれの望んだとおりの効果があるわけではない。
おそらく、予想をしたがる方が充分に愚かなことであるのだろう。
その場合は、われわれは、物質的な生を創造し、
その表現を決めるような力はないように、
精神的な生も同様に創造し、支配する力はないと謙虚に認めなければならない。
それでもわれわれは幸福に生きる理由をもっている。
どんなにそれが悪くてもそのうちよくなるだろうという希望をそれが育てるのである。
しかるに、死とは希望がいささかもないからこそ死なのである」。
試験、授業、暗記
「理性的な人々が初等学校に試験を導入しようと言い出すのは、奇妙なことである。
試験することができる唯一のことは、知識の量だけでしかない。
しかし、知識の量というものは、 その本性からすれば、人がそれを必死に求めようとしているところではほとんど意味がなく重要ではない。
ふつう教育されているのは小さな子どもであるが、
ときどき彼らは大量の知識を受け止め蓄積することができる前に、
彼らの受容能力を発展させるように要求されている。
こういう点を考慮せず、試験が導入されているのは、
学校を設立した人間に初等学校の内容が理解されていないことから来ると考えられる。
彼らは科学的な学校のミニチュアを夢想しているのであるが、
すぐにそれがつまらない夢とわかるだろう。
ここで私はできるだけこの二つの学校、科学的学校と初等学校のコンセプトを明らかにしてみたい。
科学的な学校は、かつてそして今もなお大部分がそうであるように、
外国の知識と外国語の知識、 そして一般民衆の到達点から相対的に遠くへだたった精神的世界と物理的世界の知識を
与え学ぶことが第一の課題である。
ここでは知識はただ学ばれ、蓄積され、外来のものとして使用される。
だが、これらの知識は、われわれの要求する学校の目的である二つの基本的な感情、
キリスト教倫理と民衆のエトスにアピールすることはできないのである。
他方、初等学校の課題は、外国の知識にまったく関わらない。
その目的は上に述べた二つの基礎的な情緒を涵養し発展させることである。
その結果、子どもたちは健康で強い、自覚ある生を送ることができ、
この情緒が弱く混乱したときにはいつでも目覚めさせ、涵養し、生気を送る。
結局、初等学校で大事なことはすでにあるものを発展させることなのである。
すなわち、洗礼でまいた種はすでに刈り取られているキリスト教、
そして祖先から継承してきた民衆の生活の二つである。
ここで教えられるカリキュラムは、ただ生を目覚めさせ、ビジョンを鋭くし、
生と経験を照明するためにほかならない。
公正が保たれ、初等学校の目的についての私の考えが正しいなら、
ここではいかなるものの試験されてはならない。
もし試験管が学校に存在を許されれば、学校の真の目的が誤解されていることの証明となる。
それに対して、科学的学校は、先に述べたように、
外国の国民、外国語、外国の物事に関する知識を伝達することに関わる。
これは受け入れたのと同じ仕方で、必要に応じてはき出されればならない。
そしてわれわれ一般民衆の見る限りでは、ただはき出されるために受け入れられているようである。
この場合、試験がその領地を支配するのはいいことになるだろう。
数え切れない試験があるのを見ると、 外国の物事の膨大な知識はただはき出されるために受け入れられ、
少なくともそれ以外の目的を満たすことはない」。
「そのとき、試験のない学校を人は理解することができなかった。
これにふさわしいのはまったく死んだ知識であったので、
試験に必要な材料を準備するために、宿題が初等学校に導入された。
キリスト教は、本来生きられるべきものであり、教えられることはほんのわずかであるのに、
暗記するために細かく章分けされて、宿題の一部分になった」。
「小さな子どもたちは、今はあたかも悪いことをしたような気持ちになって学校生活を送る。
彼らは宿題があり、評価の日を恐れる。
宿題のくびきは子どもたちの心を圧迫している。
くびき、それは私の見聞、経験からしても、
ほかではありえるような子どもたちの自由で喜びに満ちた発展を阻害している。
この頂点では、形式的な授業と学校の厳しさのために、
子どもたちから詩的なものがあまりにもはやく奪われ、不自然な形の散文的な生を送るようになる。
人間がこの世で出会う最初の不愉快な体験が学校であるというのは、よいことではない。
こういうやり方で子どもの心に残された印象はあとでむなしく消えるものだし、
おそらくは何も残らないであろう。
……
たしかに、ある種の科目は宿題を使って教えることは可能である。
しかし、キリスト教と祖国に関する内容は宿題を通じて取り組まれるべきものではない。
その課題は、子どもたちに天上の臣民、地上の市民社会の一員としての使命の概念を与えながら、
より高い領域に子どもたちを高め、 その高貴な使命感のために、子どもたちに情熱を目覚めさせることだからである」。
「暗記での学び、学校の全システムは、くびきである。
それはデンマークの若者の肩にのしかかり、民衆をまずます堕落させるように強いる重いくびきである。
他方で、一般民衆の要求に応じて構成された啓発のシステムなら、
彼らを立ち上がらせ、地上で最も解放され幸福な国民とすることができる。
今こそ、バレのテキストブックの桎梏からすべてのデンマーク国民を解放するときなのであるが、
しかし残念ながら現実にはそうなってはいない」。
教育の目的
「初等学校の目的は、将来の人生における位置づけになんら偏見を持つことなく、
子どもたちを人間として成長させることだけである。
結局のところ、初等学校はただ子どもにのみ関わり、彼らが一人前の人間となること、
すなわち天上と市民社会の成員となることに関わる」。
86-87
「精神を目覚めさせる才能をもった教師はそれほど多くはない。
とくに自分自身精神をもっている教師たちの間でさえそうである。
もし眠っている精神が、キリスト教においてもまた民衆のあり方においても、
覚醒されることがなければ、あらゆる知識と技術は無駄になり、
彼らは純粋に物質的なものだけを保存し、
それらを保存するために知識と技術が使われることだろう」。
……
「精神的なことを語るときは、インスピレーションが中心的なものになる。
しかし、物質的なものを語るときは、教育が中心になる」。
「養育とインスピレーションを目的とする指導は
あらかじめ展開された計画や印がつけられた仕方でなされてはならない。
子どもが目標に至るためにそれを追うことがあってはならないのである。
それよりも、子どもたち、とくに何が子どもたちを真に喜ばせるのか、彼らを楽しませ、
成長させるものは何か、そして彼らの内面にあるものに一致するものは何かについて
じっくり考えるべきである。
養育もインスピレーションも強制されることがあってはならない。
これは二つとも自由に受け入れられるものだからである」。
……
「教師が子どもにとって賢明で有益であると思ったことが
子どもに拒否され、敬遠されて失望を味わうことはよくあることだ。
これは教師が子どもたちの心に届くものをもたなかったか、
もしくは教師が意図した啓発を子どもたちが有効に受け止めるほどまで発展していなかったかの
いずれかの理由からである。
だが、こういう場合すべきことはただ一つ。
よりよいときまでそれを待ち、いかなる意味でも子どもたちに強いることをしないことである。
ある人は答えるかもしれない。
たとえ今啓発が子どもたちにとって有益でなくても、
今どうにか伝えておけば、あとで実を結び、使用されるかもしれないと。
人生はたしかにこうした事例をいくつかは示している。
しかし、日常の経験からするとそれはあまりあてはまらない。
反対に、死んだ知識によって心に堅い殻がつくられ、
あとで生きた言葉がそれに浸透するときに困難になるという場合がしばしばある。
死んだ知識はその全体からして、所有者にとって疎遠なものである。
なぜなら、彼はそれが生において使用されるかどうかも知らないし、
ましてや何のためにそれが役立つかも知らないからである。
彼はその知識が役立つはずだった場面に実は何度もいたかもしれない。
それでも実行できなかったのである。
呼びかけはされても答えはなかったのだ。
人はまたいうだろう。
知識は反復が大事である、だから若者は彼の人生を通して書物をもたねばならないと。
しかし、若者が家を離れてから、学校でしたように、
たくさんの量の知識を得て、本を読み直すというようなことがあると日常の経験は示しているだろうか?
そういうことはない。
彼が心を開かず、また、彼の得た大量の知識を貫き、
それを彼の内部で生き生きと働かせる基本的な思想と興味で満たされていなければ、
彼は彼の取り巻きにとって蹴られるボールのようなもの、
彼が出会う心地よい誘惑のたやすい犠牲になるだろう。
教育が子どもの中の精神と真実になれば、
そのために何が役立ち何がそうでないかを感じることができるだろう。
子どもたちはすでに家庭で意味のある生に至っており、
何が奨励し、何が邪魔をするかを経験して、より安全なのである
生きた言葉がすでに聞かれたなら、それは試されることなく存在はしないからである」。
原典:Om boerneskolen, Friskolebladet/Dansk Friskolefoening, 2udgave, 1986
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