http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/oranda,.htm

日本にはもともと「共生の思想」が生きてきた。

このすばらしい伝統を投げ捨てて、馴染(なじ)みの薄いアメリカモデルに追随(ついずい)することは、戦前の日本がそうであったように、木に竹を接(つ)ぐような不整合を生じさせはしないか。

その結果生じる、おそるべき事態を危惧(きぐ)しないわけにはいかない。  


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http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/book/book4.html#山折哲雄「日本人の宗教感覚」

(96/03/22)  

■山折哲雄「日本人の宗教感覚」(NHK人間大学テキスト)

 この4月からNHKの人間大学でのテキストです。神秘学的に見るとかなり不十分な宗教観ではありますが、いわゆる学者の描く「日本人の宗教感覚」についていえば、とってもいい線いっているのではないかと思いながら読み終えました。

 テキストのなかから、ふたつほど重要な視点をご紹介しながら、それについて少しばかりお話してみようかと思います。おそらくは、このテキストをネタに、テキストとはかなりかけはなれたことをお話することになるでしょうけど、ま、参考にしていただければ幸いです。 

日本人は、仏教からは無常観と浄土観を、そして空や無のイメージを受け入れ、それにたいして儒教からは自己修養、西洋からは個人主義をそれぞれ積極的に受容して、それらをうまく重層化させながら、みずからの人格形成に役立ててきたのではないでしょうか。

ただ問題なのは、それらが互いにどのように重なり合い、どのような形でふれあっているかが、もう一つはっきりしないということです。けれどもこれらの思想的特質がともかくわれわれの人生観や世界観のうえに、陰に陽に作用していることだけは確かなようです。

そしてここが大切なところですが、これらの三系統の思想的要因を、われわれの意識の底の方で支えているのが神道的な感覚ではないかと私は思っています。神道というのはまことに不思議な世界で、宗教ともいえないような、思想ともいえないような、極度に柔らかな自然感覚にみたされた世界なのですが、しかしこの柔軟この上ない自然との神道的な共鳴感覚が日本人の世界観を大きく押し包んでいることに注意しなければなりません。(P117)

  日本は裏ユダヤだということがいわれたりします^^;。その意味をぼくなりに考えたところをいいますと、ユダヤ民族というのは、本来、それまでの人類のもつあらゆる要素をあわせもっていた存在で、そこからイエス・キリストがでてきたわけです。そして、その時点で、ユダヤ民族はその使命を基本的に終え、その後は、民族性を解消していく必要があったのだといいます。しかし、現実にはそうならず、それゆえに、大きな火種になってしまいました^^;。

 それはともかく、日本が裏ユダヤだというのは、ある意味では日本人も人類のもつあらゆる要素をあわせもっている存在で、それゆえに、「外から」くるさまざまな要素を受け入れながら、この日本という坩堝(るつぼ)のなかで溶かしていくことが可能になったわけです。

 上記の引用にあるような「神道的な感覚」というのは、かつて神的なものとつながっていた時代の感覚で、そういう感覚を、他の民族のようには捨て去らないままに、さらに、先の裏ユダヤ的な「血」をも加えながら今に至っているように思います。

 しかし、この日本には、イエス・キリストはでていません^^;。おそらく、今の日本には、かつての「キリスト衝動」のようなあり方がまた別の形で起こらなければならないのではないか、それが「裏ユダヤ」ということの意味ではないかというのがぼくの考えです。

 さて、次のポイントです。 

最近、われわれの周辺に「共生」という言葉が氾濫(はんらん)するようになりました。地球環境の問題やエコロジーの思想に絡(から)んで意識されるようになった用語ですが、これはさきにのべた宗教世界における多元主義が日本の土壌に伝統として育ってきたからこそ、自然にいわれ出すようになったのかもしれません。その意味で、「共生」という言葉はまさに日本産の日本語という性格をはじめからもっていたといっていいでしょう。

しかし「共生」だけでは、私は人生観としても宗教観としてもきわめて不完全なものだと思います。なぜならそこには、生きることだけに執着するある種のエゴイズムの匂いを感ずるからです。それにたいして、「共生」という思想は「共死」の思想に裏づけられてこそ、はじめて本物になるのではないでしょうか。この場合、「共死」は無常観とも深くかかわっているはずです。空や無の感覚ともつながっているでしょう。そしてその場面においてはじめて、日本人の本来の宗教観は完結した像を結ぶのではないでしょうか。日本的な「修養」や「個人主義」という観点からみても、共に生き、共に死ぬということがあってはじめて人間の成熟した人格形成が可能になるという人間観が抱かれるようになったのです。(P119)

 黒川紀章の「新共生の思想」もご紹介しましたが、確かに、「共生の思想」には「共死の思想」はないですよね^^;。上記引用の「共生」に、「共死」という観点を加えるということはなかなか鋭いなあと関心させられました。

 ただ、どうも、そうした「生」と「死」に関するもっとうがった(穿った)観点はなくて、かなり漠然としているのが今いち物足りないところでしょうか。

 最初の引用部分に関してもそうですが、神道について語られると、どうも過去向きの宗教観になってしまうようです。これは、縄文だとかいうことについて語る梅原猛さんなどについてもいえるのですがやはり、過去どうだったかということを回帰的に問題にするのではなく、過去は過去としてその意味を理解しながら、今、そしてこれからはその課題が、どう変化しているのかなどを問題にしていかなければいけないのではないかと思うことが多いです。

 ともあれ、このテキストは、「日本人の宗教感覚」について考えていくにはとっても読みやすくわかりやすいものだと思いますので、お暇な折にでも立ち読みなどされてみてはいかがでしょうか。


http://www.pref.gifu.jp/s11121/kouen/141030.htm

平成14年10月30日

(略)

「多元的国家論」というものが、今日の日本で一番実 現しやすいんじゃないかというふうに私は思います。  

そのような考えで、「国家機能の多元化」という言葉を持ち出してきたわけでございま すが、世界的にNPO活動が盛んになってきております。

だんだんと、国家の枠といいますか、それが外れてきたわけなんです。

いわゆる冷戦構造が崩壊しまして、イデオロギー の対立というものがなくなってきました。

イデオロギーによって、例えば、ソ連邦などは 大きな国家というものを結びつけてきたわけですが、そのひもが外れました。

ドイツでも ベルリンの壁が取っ払われた。

イデオロギーの対立がなくなってきたということは、同時 に、国というものがだんだん存在感がなくなりつつあり、そのかわり宗教や、その他の文 明文化の違いというものが表面に出てきまして、過激なイスラム原理主義とか、そういう ものが台頭し、それぞれの地域というよりも、文明・文化というアイデンティティを主張 し始めました。

こういう変化の一つのシンボルが、現在の地域紛争だとか、イスラム文明 とアメリカ文明との対立とかなのです。

少し前に、ハンチントンという方が「文明の衝突」 という本を書かれまして、大きな反響を呼びました。

彼の主張が全面的に正しいかどうかは別にして、今の世界の動きというものを理解する上では、非常に重要な見解だと思いま す。

国家という枠を超えて、あるいは、地域というものを超えて、文明とか文化というものの同一性、特異性、あるいは個性、そういうもので自己主張していく、こういう時代に なってきました。  

それはそれとしまして、世界的に国家から新しい枠組みづくりという方向に徐々に向かっているということでございます。  

一つの国家の中でも、その国のやる仕事、それがどんどん分散していくという現象がご ざいます。

地方分権がそうですね。

それから、自治体への国からの権限・財源の委譲です ね。

それの先に、さらに自治体から市民の方に権限も財源も委譲していく、こういう方向に、同じ国家の中でもそういう方向にあるということなんです。  

まず、地方分権ということでは、先進諸国の中で、これほど東京一極集中、中央に政治 行政が一極集中しているところはありません。

日本は、黒船の来襲で大きなショックを受 けまして、明治維新というような変革につながったわけですけれども、ヨーロッパ、アメ リカの大国に対抗するために工業国家をつくる、軍事国家をつくる、そんなことで、中央 政府に権限もお金も集中して、鉄鋼までも国営の会社で造っていました。

その流れにあるのが今日の日本政府ということなんです。

鉄も言うなれば国家で生産している、それから、 軍艦・大砲づくり、これに国家予算を大幅につぎ込んでいく。  

「あゝ野麦峠」という本がございますが、飛騨の方から信州の方に絹糸紡(つむ)ぎに大勢の方が出稼ぎに行きました。非常に悲しい物語だと強調されておりますが、実は、地元の方に 聞きますと、結構楽しんで行ってきたという話も多いんですね。

糸を均等になるべく細く糸引きをする女性は、やはり給料も非常に高かったようなんです。

機械で均等に細くということは、当時、できなかったんですね。

最終的には人手に頼るということで、そういう糸を細く長く切れないように引くという技術を持っている女性は高給で遇されまして、飛 騨の自分のふるさとへ帰ってきても、非常に大事にされたと言われております。

その給料で家を一軒買ったとか、親孝行したという話が残っております。  

それはそれといたしまして、当時のシルク産業、このシルクの輸出によって軍艦とか大砲を買ったんです。そういうような歴史がございます。

そういうふうに、力も金も中央に集めて、そして、一定の決められた方向に日本の国民全員が力を合わせてワッショイワッショイと進みました。

司馬遼太郎の小説に「坂の上の雲」というのがございます。

日本国民全体が坂の上の雲を目標に一斉に上っていったというのが、明治維新以来の姿だったん です。

それによって、日本は世界でも有数のトップクラスの工業国家になり、経済大国と なるんですね。

そして、現在のところは、経済規模がアメリカに次いで2番目、それから 1人当たりの所得はスウェーデンとかそういうところと同じぐらいの、世界でもベスト5 に入るか入らぬかと、このぐらいの実績を残したんです。

それはそれで、列強の先進欧米諸国と競争してやっていくというためには、やむを得ない措置であり、かつ成功したと思 います。  

しかし、今日では、先進諸国と称される国で、これほど権限・財源を1カ所に集めているところはどこにもありません。

フランスが比較的中央集権的だったんですが、これもレジオンというところを州にしまして、税金の面でも自分たちで制度をつくって税金を納(い)るというようにしたわけです。

自主性を与えたわけです。遅れておったフランスでもそうで ございます。  

今年、スイスのサンガレンというところに参りまして、「サンガレン・シンポジウム」 という「ダボス会議」と並んで世界的に有名な会議に招かれて、スピーチをさせてもらい ました。

ついでにサンガレン州政府にもお伺いしました。

人口は、40万人か50万人のとこ ろですけれども、一つの国ということになっております。

スイスは連邦国家であり、サン ガレン州は憲法を持っておられます。

自らの軍隊も持っているということです。

余談でご ざいますけれども、サンガレン州の外交大臣、教育大臣に招かれて夕食パーティーに出席 しました。

パーティー会場が地下壕なんですね。

これは何かといったら、核戦争が起こっ たときに避難する地下壕であるということなんです。

たしかスイスというのは1815年に永 世中立宣言をして、そして、オーストリアとか、あるいはドイツ、フランスなど、周辺の 当時の強国から、スイスの永世中立というものを支持するという声援を受けたんですね。

今日までずっと永世中立で来て、平和の象徴がスイスだというふうに日本人は思っており ますが、そのスイスで核戦争を想定して地下壕を持っているということでございました。

日本でも有事立法、有事法制が論議されております。

私は、「スイスは永世中立宣言をしているんじゃないですか」と、サンガレン州の外交大臣にお話ししたら、我々は、万一と いう可能性に備えているということをおっしゃいました。

国というものは、万一に備えて、 有事じゃなくても、無事のときに体制を整えていくというのが常識なんですね。

現在の日本の状況は、世界の常識からいったら、全く情けない話です。

一体、国民を守るという厳 しい責任感を中央の人たちが持っているかどうか、大変、疑わしいというふうに私は思い ます。

スイスの例も大いに勉強してもらいたいというふうに思います。

今、北朝鮮といろんな交渉が始まっておりますけれども、どんどんいろんなことが明るみになってきました。

例の不審船の問題、拉致問題、それから核兵器の問題、そういう危険が、可能性ではなく て、現実に起こっているわけです。

こういう事態にあるにもかかわらず、日本国政府が我 々を守ってくれるかどうか、大変、疑わしいと思います。

拉致ということがわかっておっ ても、今日までほとんど放置されたも同様です。

こういうことがいつ我が身に襲ってくる かわからないというのが、弱体国家「日本」の姿なんですね。  

そういうことはさておきまして、国家機能というものをもっと外交とか防衛、あるいは 通貨政策に集中しなければいけない。

今の日本の一番弱いところなんですけれども、それ を、中央政府が一所懸命やらなきゃいけないのです。

外交・防衛・通貨政策、全部だめで しょう、三つとも。

そして、どこどこに高速道路をつくるかどうか、そんなことを一所懸 命自分らで握り込んで、高速道路の建設を凍結するとかしないとか、いつまでもやってい ろと、こういうことなんです。

そのようなことはこっちに任せて、本来の国家機能である 外交・防衛・通貨政策、これをしっかりやってくれということなんです。  

地域でやれることを一所懸命握り込んで、肝心の自分たちがやらなければいけないこと がなされていないというお粗末な日本なんです。

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